Room708
名づけて「直也の部屋」。 編集長が、プロフェッショナルな立場から、広告を語り尽くします。

ふたたび、博報堂のこと。

2016年10月10日
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さて、くだんの旧博報堂本社。


入社後、さいしょに配属されたのは、つづきの棟の、「別館」。

低層におおきなスタジオを構えた、7階建てくらいのビルでした。

(もちろん、いまはありません)

そこの4階、当時の「第4制作室」が、ぼくの仕事場となったわけです。


出版営業セクションも、同じビルにはいっていました。

これは、今もつづく博報堂独自の組織です。

そもそも、出版の取次からスタートした、博報堂。

なぜ、まわりに出版社の多い、神田錦町に本社を置いているのかと合わせ、

そのなりたちと特色が、うなずけますよね。

ただ、新聞・雑誌から電波媒体に主役が移った昭和30年代に、

いちはやくテレビに飛びついた電通に対し、

おおきく水をあけられてしまった、と聞き及んではいます。



というわけで、われらが第4制作室も、当時の花形は、出版広告でした。

たてつづけに、いろんな新刊雑誌が登場していた時代。

あのころはたしかに、雑誌が文化全体を引っ張っていたんですね。

Popeye、Brutus、Hanako、フォーカス、フライデー、ぴあ・・・。

数え上げれば、きりがないほどです。


そう、いまでも忘れられないのは、配属された4制に出社してみると、

壁一面、Number1、Number2 なるポスターが貼りまくられていたこと。

そうなんです、ちょうど文藝春秋から、あの「Number」がロ―ンチされるところでした。


そのNumber1の表紙を飾っていたのが、ゴルフの青木功さん。

そしてNumber2が、野球の田淵幸一さんでした。

やっぱり、田淵はナンバー2なんだな、と笑ってしまった覚えがあります。


これ、仕掛けとして、創刊号はNumber1、2号めはNumber2と、

雑誌じたいの名前がどんどん変化してゆく、という提案をしていたのですね。

ぼくが見たのは、ちょうどそれが通るか通らないか、のタイミングだったわけです。

ということはこの雑誌、もう30数年もつづいてるんだなあ・・・。


ことほど左様に、とにかく雑誌が元気いっぱいの時代でした。

いまでは、そんな隆盛も、見る影なし。

ほんとに、隔世の感があります。



・・・そうなんだよなあ。変わったのは、博報堂本社の外観やまわりではなくて、

そのなかで営まれていること、のほうなんだよなあ。


まあ、時代の必然ですよね・・・。




岡田直也
1955年東京生まれ、札幌育ち。
現在の本拠は大阪・南堀江。
東京・大阪・札幌各コピーライター
ズクラブ会員、エンジン01文化戦略
会議会員、甲南女子大学講師。
各地に私塾を開催、若手の育成にも
力を注ぐ。また年に一度のライブに
命を燃やすミュージシャンでもある。